復古版旧奥州街道 古川編中央部1

復古版旧奥州街道 古川編中央部1

復古版旧奥州街道 古川編中央部1
古川西宮神社の北川隣に瑞川寺があります。ここの山門の一部が元古川城の一部と言われています。さらにこの境内には古川の父と言うべきでしょうか鈴木元信のお墓があります。この人 武の政宗 文の元信 といわれるくらい伊達家の文官で秀でていたようです。NHK大河ドラマ 独眼竜伊達政宗 でもちょこちょこ出ていたようです。さらに北上して三日間公園の入り口部分に奥州街道の案内があります。古川西宮神社を後にしてそのまま北上すると3分弱で右側に三日町公園がありその入り口部分に奥州街道のモニュメントがあります。古川宿に入ってからは残念ながら奥州街道を標識してくれる場所がありませんでしたので、これらをみると一安心します。できれば要所要所に案内はほしいものです。築館では高清水から栗原市役所迄は何とかわかりそうな案内版が設置されているのでいいです。
この古川の案内標識の中身についてはアルバムを参照願います。たの場所でもみたことがあるような標識ですが安心感が高い。
古川三日町公園を後にしてそのまま北上すると50m位でくらいで左に曲がる道(中新田方面)があります。この道路が中羽前街道で中新田、小野田、漆沢と経て最上海道になり山形銀山方面に抜けるスタート道です。大野東人の最上海道のかなり後に接続されたのでではないでしょうか?
さらに50m位進むと緒絶えの橋にたどり着く。平安時代の和歌集などの枕詞によく使われた名所のようです。江戸時代に2回改修されたようです。奥州街道古川宿のほぼ真ん中の位置に有ったのですね。当時も今同様に橋は名所になっていたのでしょうか?橋の竣工日によれば、現在の橋は大正末期に改修されたものと思われます。ただこのおだえのはしは初期は別な場所にあったのではないかとも言われています。大崎近郊の古代の主要道は色麻、中新田、氷室、三丁の目、宮沢と言われていますので橋が、原位置より西側にあったと思っても不思議ではないが・・・・・
古川のおだえの橋とかむろ 古川


芭蕉さんせっかく岩出山まで来たのになぜよらなかったのでしょうか?
ここの橋を過ぎると奥州街道前半の折り返し大崎市役所になります。市役所近郊は?
旧奥州街道古川 古川城址アルバムを追加しました
旧古川市内の奥州街道で前回の緒絶え橋近郊をそのまま北上すると目に前に大崎市役所が出てきます。そのおおむね北側に古川第一小学校があります。歩いても1,2分程度です。その周辺が古川城跡地になっています。古川城には大崎氏当主は本拠地を置かなかったようですが、奥州街道の目の前ということでその様子をうかがいながら多くの人が通っていったのでしょうね。
と同時にこ近郊は当時の交通の要所になっていたのではないでしょうか?西には出羽街道、東には石巻街道、さらに最上街道へも、現黎明高校近郊から抜けられたようですが。さらにこの第一小学校には古川ゆかりの学者吉野作造の記念碑もあります。
このころ大崎近郊の中心も西の中新田近郊から徐々に現古川近郊へと移ってきたのでしょう?
そして江戸時代にはこの市役所近郊に古川代官所も置かれたようですが?
代官所址については奥州街道後半の築館古川編で掲載したいと思っています。
奥州街道大崎近郊編前半の部大衡村から古川の大崎市役所迄歩いておおむね6時間30分でした。後半の部築館から古川の大崎市役所までは後日掲載予定です。
歩いてみると今まで見えなかったことも見えてきたような気がしますが・・・・・
映像:大崎奥州街道 古川代官所跡 を追加しました
旧奥州街道現旧4号線で1里塚のちょっと南に十日町の交差点があります。昔はこの近郊で十日市が開かれていたのでしょう。ちょっと東に三日町がありますのでそちらでは三日市が開かれていたのでしょう。
現在は熊野神社などで行われています。交差点を右折して現108号線を西に向かうと数分で右側に大崎市役所があります。そこが今回奥州街道古川北部編の終点になります。この市役所の左側には明治天皇が古川に来たとき立ち寄った記念碑とさらに江戸時代でしょうか代官所跡地の碑があります。知る範囲で代官所跡は富谷、築館にもその碑があります。
一部にはこの市役所近郊が当時の交通の中心になっていたとも言われています。中羽前街道(中新田方面)、北羽前街道(鳴子方面)等とこの近郊から始まっています。
古川城跡


古川代官所跡


青塚城跡

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