古川の小野小町伝説はどうなる?「陸奥に世を・・
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歌の解釈は
「陸奥に世を浮島もありてふを関こゆるぎのいそがざらなむ」
ちょっと歌の解釈をどうとっていいのか迷う和歌ですね。まずはこの 浮島 が塩釜近郊の島ともいわれて、宮城県の多賀城市に浮島神社があります。この近郊なのでしょうか? 関こゆるぎ がこゆるぎとゆう名の関(東海地方?)といわれています。いそがざらなむ はそんなに急がないでほしい と解釈するのでしょうか?となれば後半は (私のそばをはなれて)そんなに急いでこゆるぎの関(東海地方の関?)を越えなくてようでしょうに と解釈できます。
次に前半は ありてふ=あるとゆうに とすれば 陸奥国はこの世をうきうきさせるところがあるとゆう となりますが、・・・
詠んだところは陸奥国?都?
が、このうたはどこで 都?陸奥? どちらにいて詠んだ歌なのでしょう。この歌の出典は流布本系と異本系の両小町集にある和歌で、流布本系小町集では小町は都にいることになっており、異本系小町集では陸奥にいることになっているようになっているようです。さらに異本系ではこの後に以前掲載しました 「あなめあなめ・・・・」 の歌が掲載されているのでまさしく小町の東北伝説が形成される要素となっています。
こゆるぎの関が東海地方のどこかでないかと言われています。つまり陸奥と都との真ん中と言わないまでもどっちつかずの場所の関を出しています。もし陸奥なら白河とかなこそとか陸奥最南端近くの関が、もし都で読んだなら都の出口近くの関が出てきてもよいと思いますが?おそらく 関を越えていかないで とゆう意味で 関こゆるぎ を使ったのでしょう。
さらに陸奥にいる人がこの歌を詠むとき 陸奥に世を浮島もありてふ と読むだろうか?何となくだいぶ離れた場所から 陸奥に世を浮島もありてふ と想像するのでないでしょうか?
自己流解釈は
で、「陸奥に世を浮島もありてふを・・・」をいつものごとく自己流で「陸奥の国にはこの世を浮き浮きさせる(男女の仲)所があるとか言われているので、そんなところにあなたが行くなんてわたし寂しいので、そんなに急いでこゆるぎの関を越えなくっていいでしょう、こえないで」と解釈したい。このほうが自然な気がしますが・・・・・なんとなく小町らしい表現になったろうか?
となると都にいて呼んだのだろうか?残念ながらこの歌は古今集には載っていないので小町作かどうかもわかりませんね!
関連資料
外部リンク:大磯 ~古(いにしえ)の歌~
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/miryoku/inishienouta.html